憲法

インタビュー 戦争体験を語り継ぐ 戦争体験者 佐藤 明夫さん

2度目の6年生
ぼくは、ロボットになった─

1958年に世界で初めて非核自治体宣言をし、1993年に非核・平和都市宣言をした愛知県半田市。「半田空襲と戦争を記録する会」の代表を務めている佐藤明夫さんに自身の戦争体験と半田空襲についてお話を伺いました。聞き手は半田高校出身の弁護士中川亜美。

―生い立ちは?

1930年10月に岐阜で生まれました。翌年には満州事変が起き、15年戦争が始まりました。15年戦争の真っ最中に少年時代を迎えたということです。街の人々の提灯行列などを見て、戦争をまざまざと感じました。小学4年まで郡上八幡で過ごし、親の都合で1941年4月に高山へ転校しています。この年に、小学校が国民学校という制度に変わりました。

―どのような学校生活でしたか?

1941年の12月、太平洋戦争が始まりました。国民学校では集団登校でした。現在では交通安全や防犯目的で集団登校を行う地域もありますが、当時の集団登校は集団訓練でした。6年生は「集合」「右へ倣え」「前に進め」「全体とまれ」と号令しなければならず、下級生はそれに従う。天皇の写真の安置場所に到着すると「全体止まれ」「最敬礼」をする。そんな毎日でした。私は6年生でしたが内気でしたので、号令をかけることが大嫌いでした。そのため、体調不良や時には仮病を使うなどして、1年間学校を休んでいました。でも子どもながらに考えるわけです。妥協しなきゃならんだろうと。2回目の6年生をやるときにはロボットになった気分で言われた通りのことをやりました。級長に任命されたこともあり、大嫌いな号令や集団訓練も先頭になって参加していました。卒業後は、岐阜へ引っ越し、旧制中学校へ入学しました。中学でも、なにも考えずに体制に従うロボットでした。

1944年11月に本土空襲が始まりました。岐阜市では中学1年生も重要な戦闘要員なので、隣組の当番で防空監視つまり望遠鏡で空をみて「敵機襲来。待避待避。」という号令をかける任務を与えられました。平日の授業は半分くらいで、あとは運動場を開墾してさつまいもを育てたり、大きな防空壕を作ったりしていました。夜には、真夜中でも空襲警報が出ると学校へ駆けつけて警備をする任務が与えられました。3年生以上は工場動員、2年生は学校の防火要員、1年生は警備です。今なら、寒いとか眠いとか恐いとかの感情があって当然ですが、当時は全くそういう気持ちにならない。任務だから仕方が無いと思っていました。火の中、水の中に飛び込めと言われればそういうこともしたであろう少年でしたね。

―少年時代の心の傷がまだ残っていると伺いました。

中学1年生の春休みに、建物強制疎開をやりました。防火道路を作るため、実際に建っている家を壊すわけです。岐阜では、手ぬぐいをもって、まず警防団が大黒柱に太い縄を縛り、生徒が綱引きの要領で引っ張る。当時は、面白がってやっていました。しかし、対象の住宅は壊されることを2週間前に伝えられる。直前まで生活が営まれていた状態、茶碗が転がっていたり、人形や新聞が散らかっている家を壊すわけです。普通であれば手が鈍るはずですが、私はロボットだから、何にも思わずに壊していたのです。さすがに後になって心に傷が残りましたね。

もう一つは、1945年の5月に、岐阜が危ないということで福島の郡山へ親戚を頼って疎開したことです。その約2か月後、川崎航空機岐阜工場に空襲があり、かつての同級生は酷い目、恐い目にあったということを聞きました。そういう情報が入ってくると、自分が敵前逃亡をした気がして、卑怯だったとか心の痛みが未だにずっと続いています。

―感情を取り戻したのは?

終戦を迎え、家族で玉音放送を聞いて敗戦したとわかったときは悔しくて悔しくて泣きました。母親がお盆のために作ったぼた餅も、全く手を付けられませんでした。「無念残念、必ず仇はとるぞ。」と日記にも書きました。しかし、3日経つと、ラジオや新聞などの情報がたくさん入ってきました。9月から2学期が始まり、これまであった日本史や修身の授業が占領軍の命令で禁止されました。そこで、代わりに討論という授業が設定されて、例えば天皇制に賛成・反対、男女共学に賛成・反対等の討論をしました。先生はなにも言わず、新聞や雑誌を資料にし、自分達で調べて討論しました。相手をやっつけるにはフェイクニュースではだめなので、データを示して意見を戦わせないといけない。何でもいいなりになるロボットではダメだということに気づき、自分で物事を考えて判断しなければならないという少年に変わっていったのです。そのことについては絵本、『ロボットになったあきおくん』に書かれています。(下欄参照)

―半田空襲と戦争を記録する会を発足させたのはなぜでしょうか。

大学の卒論の指導教授が家永教科書裁判の家永三郎教授でした。私は教科書検定訴訟を支援する愛知連絡会の事務局長を務めた関係で、歴史や日本国憲法、特に基本的人権を学びました。加えて、教員になって日本史を担当し、近代史こそが重要と考えていました。家永先生も1960年代に太平洋戦争、とくに空襲被害を掘り起こしました。70年になると東京大空襲を記録する会が発足し、大阪、名古屋と続きました。私は、半田空襲をやらないかんと思い、元教え子などに声をかけて記録する会を発足させました。民間人の犠牲者を掘り起こそうということ、学徒動員についてなぜ行なわれたのか、そして、加害はなかったのかを調べようと思いました。そして、調査でわかったことを次の世代、若い世代へ継承していきたいと続けてきました。

―90歳を超えてもなお、精力的に戦争記録を残す活動されているのはなぜでしょうか?

同級生が工場に動員されたり少年兵になって死んでいるのに自分は疎開して助かったということに申し訳なく、詫びなければならないという気持ちが一つ。もう一つが国民学校教育によりロボットにされたことについての自分自身への恥ずかしさ、悔しさ、腹立たしさ、そしてロボットにするような体制に対する怒りに突き動かされています。

半田と戦争

新美南吉、赤レンガ建物などで知られる愛知県半田市。戦時下では軍需工場があるために爆撃の標的となったり、昭和東南海地震により多数の戦災犠牲者が出ました。

中島飛行機の誘致

当時、日本の軍用機トップシェアを誇る中島飛行機(以下「中島」)の工場を半田市が誘致し、1943年、現在の半田市役所あたりから乙川地区に工場が完成しました。敗戦までの1年8か月で、特攻機を含め計1391機の軍用機が製造されました。現在も、飛行機の方向転換をするエプロン(円)と離陸専用の滑走路の形が残っているのが航空写真でわかります。

赤レンガ建物の買収

50年の歴史がある大日本麦酒半田工場(カブトビール)は大量の衣料と食糧の保管に最適であるため、1944年5月に中島によって買収されました。そのため、1945年7月15日、赤レンガ建物も空襲の標的になり、現在も赤レンガ建物の北壁には機銃掃射の弾痕が残っています。

半田空襲

中島では、当時、全国から徴用工、女子挺身隊、勤労動員学徒が集められ、朝鮮人徴用1200人を含め、約3万人が働いていました。  1945年7月24日午前10時38分、B29爆撃機78機と艦載機や小型機約100機による空襲が始まりました。わずか18分の間に250キロ爆弾約2200発、1トン爆弾7発。この日、空襲警報が早くから出ていて、工場は休みでした。しかし、中島の工場のみならず、周辺の集落も爆撃されたため、犠牲者272名のうちの多くが一般市民でした。  半田空襲や戦災による犠牲者を追悼するため、雁宿公園に「半田・戦災犠牲者追悼平和祈念碑」が建立されています。

昭和東南海地震

1944年12月7日、紀伊半島沖を震源地とするM7.9の大地震が発生しました。死者・行方不明者1223名のうち153名が中島の従業員でした。軟弱な地盤にあった紡績工場を飛行機工場へ転用し、「決死増産」がスローガンで安全を軽視していました。また地震を爆撃と錯覚し、待避命令を待ってしまい避難が遅れた可能性もあります。戦争がなければ、徴用・動員されていなければ、助かった命も少なくなかったでしょう。地震で亡くなった学徒を追悼するため、雁宿公園に「殉難学徒之像」が建立されています。

佐藤明夫さんプロフィール

佐藤明夫さん

1930年岐阜県大垣市生まれ 。東京教育大(現筑波大)で日本史を学ぶ 。卒業後 、県立半田高校へ赴任。1983年に「半田空襲と戦争を記録する会」を発足させ  40年間にわたリ 、戦争や空襲の体験者の証言を集め多数の記録集を出版したり 、小中学校で出前授業を行っている

本の紹介

ロボットになったあきおくん

『ロボットになったあきおくん』1冊500円(送料別)
[連絡先] 有留 麻由(ありどめ まゆ)
     ari.4treasures113@gmail.com
     090-6588-6896

この記事の担当者

中川 亜美
中川 亜美
名張毒ぶどう酒事件をきっかけに弁護士を目指し、これまで多くの方々の力添えがあってこそ、この職に就くことができました。人権が蔑ろにされない健やかな社会を目指して日々精進してまいります。
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