憲法

大垣警察市民監視事件と共謀罪

1.大垣警察市民監視事件とは?

 2017年5月21日(日)、私が支部長を務めている日本国民救援会中村支部の支部大会に参加してきました。
国民救援会は、1928年に創立された国内でもっとも長い歴史をもつ人権団体であり、日本国憲法と世界人権宣言を羅針盤に、冤罪事件、労働事件などを通じて、様々な人権侵害と闘ってきた団体です。
 昨年5月22日に名古屋市中村区に国民救援会の支部である「中村支部」が誕生しましたが、今回は、その中村支部の第2回目の支部大会でした。

 支部大会に先だって、当事務所の樽井直樹弁護士による「大垣警察市民監視事件」についての講演が行われました。
 「大垣警察市民監視事件」とは、次のような事件です。
 2005年頃から、岐阜県大垣市上石津町と不破郡関ヶ原町に連なる山の尾根に巨大な風力発電施設の建設計画が進められていました。
 地元の住民の方々は、環境破壊や風力発電によって発生する低周波による健康被害などについて不安を感じ、勉強会を行っていました。
 すると、大垣警察署が、勉強会を開いた地元住民2人と脱原発活動や平和活動をしていた大垣市民2人の「氏名」、「学歴」、「職歴」、「病歴」などの個人情報、地域の様々な運動の中心的役割を担っている法律事務所に関する情報を事業者に提供していたことが発覚しました。
 警察は、市民の情報を収集し、事業者に個人情報を提供することが、治安維持の観点から必要であり、このようなことは通常の警察業務なのだと主張しています。
 その後、個人情報を提供された住民の方々が原告となって、大垣警察署員の行為の違憲性、違法性を問う国家賠償請求訴訟を提起し、現在も裁判が続いています。樽井弁護士は、この訴訟の原告代理人を務めています。

2.「共謀罪」の危険性

 ところで、現在(2017年5月27日現在)、国会において、いわゆる共謀罪(「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律」の改定案)の審議が行われています。
 共謀罪は、刑法に規定された犯罪の結果を発生させる現実的な危険性を有する行為(「実行行為」といいます。)はもちろん、そのような現実的な危険性を有する行為の着手までに至らない、軽度の危険性を有する準備行為(「予備行為」といいます。)ですらない「計画」を犯罪として処罰しようとするものです。
 このような「計画」が行われていることは、外からは見えにくいものです。
 したがって、捜査機関が、このような「計画」を取り締まるためには、これまで以上に、盗聴・おとり捜査などを用いて、捜査機関が「危険」と考える人物や団体を日常的に監視することが必要になると思われます。
 なお、共謀罪として処罰するためには、犯罪の「計画」に基づいた「準備行為」を行ったことが必要とされています。しかし、この「準備行為」は、上記の「予備行為」とは異なり、軽度の危険性すらない、極めて日常的な行為も含まれます。たとえば、ATMで預金を引き出す行為などです。このような行為が、何ら犯罪とは関係のない日常的な行為として行われたのか、それとも、犯罪の「計画」に基づいてなされたのかを判断するためには、結局のところ、目に見えにくい「計画」の存在、及び、その内容を明らかにする必要があります。したがって、「計画」に加えて、「準備行為」を行ったことが必要だとしても、そのことによって、捜査機関による日常的な監視がなされる危険性を減少させるものではないと考えられます。

3.共謀罪成立により監視社会が到来する

 実は、このようなことは、共謀罪が成立していない現在においても行われています。
 皆さんもお気づきだと思いますが、まさに、前に述べた「大垣警察市民監視事件」は、捜査機関が「危険」と考える人物や団体を日常的に監視していたことが問題となった事件です。
 このように、共謀罪が成立していない現在においても、捜査機関による「通常の業務」として、一般の市民を監視する行為が行われているのですから、共謀罪が成立した場合には、さらなる監視社会が到来することは、ほぼ確実だといえるでしょう。

4.共謀罪に反対の声を上げよう

 「大垣警察市民監視事件」の講演においては、この事件の当事者であり、訴訟の原告の一人でもある方(真宗大谷派の住職をなされている方です。)にもお話いただきました。
 そのお話の中の「仏教において、監視され、管理され、主体性を奪われたあり方を『畜生』といいます。」という言葉がとても印象に残っています。
この国が、国民に対して「畜生」の生き方を強要するような国にならないよう、「畜生」の生き方を強要するような内容の法案に対しては、最後まで反対の声を上げ続けなければならないと思っています。
 私が所属する愛知県弁護士会も共謀罪の制定に反対しています。
 2017年5月27日(土)には、愛知県弁護士会が主催する共謀罪廃案を求める集会・パレードに参加しました。
 このように、出来ることから一歩ずつやって行きたいと思います。

国立公文書館特別展「誕生 日本国憲法」のご紹介

弁護士 樽井直樹

 南スーダンに派遣された陸上自衛隊の日報問題や森友疑惑をめぐる財務省の対応や加計学園に関する問題を見ると、行政機関での公文書のずさんな取扱いが分かります。公文書の収集、保存、活用において重要な役割を果たすのが国立公文書館です。
その国立公文書館では歴史的な文書の展示も行っています。この春は日本国憲法施行70年を控えて「誕生 日本国憲法」という特別展示がされていました。この展示を見てきましたので、ご紹介します。

 

1 敗戦から「憲法改正」案の作成まで

 日本国憲法が連合国(実質的にはアメリカ)による占領中に制定されたことから、日本国憲法の成立に連合国軍最高司令官司令部(GHQ)の強い関与があったことは従来からも明らかにされています。そのことを捉えて、日本国憲法は「押しつけ憲法だ」として、改憲論の根拠とする言説も根強く存在します。
今回展示された資料からは、敗戦を受けても政府内部では大日本帝国憲法(明治憲法)の改正を不要とする意見や改正をするとしても最小限にとどめ解釈で対応するという見解が多数を占めていたことが分かります(「「ポツダム」宣言受諾にともなう各省実行計画」(昭和20年9月11日)や法制局書記官が作成した「終戦と憲法」(昭和20年9月18日))。そのような流れの受け、旧態依然とした憲法観しか示せなかった政府の憲法問題調査委員会の改憲草案(松本試案)が明らかになった(昭和21年2月)ことから、危機感を抱いたGHQが、憲法問題に積極的に関与するようになったことが浮かび上がります。
政府の対応は旧態依然としたものでしたが、民間人はそうではありません。映画「日本の青空」でも知られる憲法研究会の活動は有名ですが、その「憲法草案要綱」(昭和20年12月26日)はGHQにも影響を与えたといわれています。憲法研究会は憲法草案要綱を首相官邸に持参し提出しています。そのときに出された杉森孝二郎鈴木安蔵の名刺を添付した憲法草案要綱が展示されていました。


GHQの「憲法草案」(昭和21年2月13日)が示され、閣議に日本語訳が提出されました(昭和21年2月26日)。政府はGHQ案をもとに憲法改正を検討するしかないことを受け入れ、「憲法改正草案要綱」(昭和21年3月6日)が発表されます(日本国憲法は実質的には新しい憲法を制定したものですが、形式的には明治憲法の改正という形を取りました。この稿で「憲法改正」という場合、「日本国憲法の制定は明治憲法の改正という形式を取った」という意味で使っています。)。
この要綱が発表されたことから、憲法についての活発な議論が巻き起こります。いくつか興味深い資料を見ることができました。

  1. まず、憲法改正手続きをどのように進めていくかという点について、明治憲法の憲法改正手続に関する部分及び枢密院・貴族院に関する部分のみをまず改正し、その後、改めて憲法制定のための「制憲議会」を招集し憲法改正案を提出するという案が検討されていたこと(昭和21年3月。結局は、「あまりに理想的であり、理論的に過ぎ」るとして退けられた。)。
  2. また、後に憲法担当の国務大臣として活躍する金森徳次郎(戦前に法制局長官を務め天皇機関説により下野した)が、草案の「主権所在の問題」についてかつて自らも批判された天皇機関説を採用したものという論説を発表し(昭和21年3月9日)、これに注目した政府が金森を内閣嘱託として迎え入れ、憲法制定に関与させるようになったこと。
  3. さらに、内閣審議室世論調査班が憲法改正草案に対する意見の投書(いまでいうパブリックコメント)をまとめたものを作成しており、この中では形式面で「用語の平明化」を希望するものが「極めて多い」とされ(このことが日本国憲法ではじめて、法文にひらがな表記が採用されたことにつながったのでしょう)、「戦争放棄」に関して「戦争放棄には賛成なるも軍備撤廃に関しては国民的不安の感情を有するやに見受けられ、又明文にて規定する要なしとするもの知識階級に相当数見受けらる」との記述が目を引きます。

2 帝国議会での審議に向けて

 戦後初めての衆議院総選挙は昭和21年4月10日に行われました(女性の参政権を認め、選挙権を20歳に引き下げる衆議院議員選挙法の改正は昭和20年12月に行われていました)。この議会で明治憲法の「改正」という形式で日本国憲法の制定が議論されることになります。5月には吉田内閣が発足し、金森は憲法担当の国務大臣として入閣します。
金森は、法制局とともに、制憲議会での争点問答を準備します(「憲法改正草案に関する想定問答」(昭和22年4月))。例えば「今回の改正で国体に変革を来したか」という論点について答弁を用意しています。「国体護持」を掲げる保守派に配慮しつつ、旧態依然とした国体論を振りかざすわけには行かないという中で、「国体とは法律的制度の根底となっている国家の個性特色で・・・わが国にあっては万世一系の天皇が常に国民生活の中心にましましてきた国柄をいう〔が〕・・・それは必ずしも天皇が広範な政治上の権力を有されることを意味しない・・・新憲法の第1条は国民生活の中心的存在としての天皇の地位を明確に宣言したもの〔であって〕・・・ここに国体は護持されているとみるべきである」と象徴天皇制と国体を結びつけることで国体護持論を唱えます。同時に「国体に変革なしとする説明が海外に反動的印象を与え、不測の反響をもたらさないやう答弁に際し慎重なるを要する」との注意書きをかかげています。
憲法改正案は議会での集中的な審議、衆議院、貴族院でのそれぞれの修正を踏まえ議決され、枢密院でも可決、昭和21年11月3日に交付されました。

3 憲法の普及

 憲法公布後、憲法の普及活動が始まります。
11月3日、日本国憲法公布式典で昭和天皇は「勅語」を「下し」ました。勅語では、「日本国民は、みづから進んで戦争を放棄し、全世界に正義と秩序を基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基づいて国政を運営することをここに明らかに定めた」とし、「朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ」と述べています。大変立派な「勅語」です。「このような勅語を是非学校で教えて欲しい」といった議論が巻き起こらないのは、勅語をありがたがったり、押しつけたりすることが、憲法的ではないからです。
さて、帝国議会は、新憲法の普及徹底のため1年の期限付きで帝国議会内に「憲法普及会」を設けます(昭和21年12月1日)。憲法普及会は中央官庁職員に新憲法の精神を徹底させるための憲法普及特別講習会を開催したりします。その講義録が「新憲法講話」として出版されています(昭和22年7月)。目次を見ると「第1講 新憲法大観 金森徳次郎」「第2講 新憲法と教育 芦田均」「第3講 戦争放棄 横田喜三郎」「第4講 基本的人権 鈴木安蔵」「第5講 家族制度と婦人 我妻栄」「第6講 国会と内閣 宮沢俊義」「第7講 司法、地方自治 田中二郎」「第8講 新憲法と社会主義-私有財産及労働権 森戸辰男」「第9講 政治思想 堀真琴」と保守派から学界のリーダー、左派知識人まで錚々たる講師がそろっています。
憲法普及活動といえば文部省が副教材として作成した「あたらしい憲法のはなし」(昭和22年8月)が有名ですが、憲法普及会も「新しい憲法 明るい生活」という小冊子を2000万部発行し、各戸配布をしたようです。「もう戦争はしない」という項では、日本国憲法の平和主義について、見事な説明がなされています。
「私たち日本国民はもう二度と再び戦争をしないと誓った。これは新憲法の大きな特色であって、これほどはっきり平和主義を明らかにした憲法は世界にもその例がない。私たちは戦争のない、ほんとうに平和な世界をつくりたい。このために私たちはこのために私たちは陸海空軍などをふりすてて、全くはだか身となって平和を守ることを世界に向かって約束したのである」。この徹底した平和主義の趣旨について「わが国の歴史をふりかえってみると、いままでの日本は武力によって国家の運命をのばそうという誤った道にふみ迷ってゐた。殊に近年は政治の実権を握っていた者たちが、この目的を達するために国民生活を犠牲にして軍備を大きくし、ついに太平洋戦争のような無謀な戦いをいどんだ。その結果は世界の平和と文化を破壊するのみであった。しかし太平洋戦争の敗戦は私たちを正しい道へ案内してくれる機会となったのである」と説明します。さらに、「新憲法ですべての軍備を自らふりすてた日本は今後「もう戦争をしない」と誓うばかりではたりない。進んで芸術や科学や平和産業などによって、文化国家として世界の一等国になるように努めなければならない。それが私たち国民の持つ大きな義務であり、心からの希望である」と「積極的平和」概念につながる考えを示しています。そして、この項目は次のように締めくくられています。「世界のすべての国民は平和を愛し、二度と戦争の起こらぬことを望んでいる。私たちは世界にさきがけて「戦争をしない」という大きな理想をかかげ、これを忠実に実行するとともに「戦争のない世界」をつくり上げるために、あらゆる努力を捧げよう。これこそ新日本の理想であり、私たちの誓いでなければならない」。
憲法普及会が当初の予定どおり1年間で任務を終えたあと、昭和23年6月に憲法普及協会が発足し、その後6年間活動を続けたそうです。

 日本国憲法の制定過程にGHQが深く関与したことは事実でしょう。しかし、そのことが直ちに「憲法が押しつけられた」ことを意味するわけではありません。今回の展示を見て、改めて日本国憲法は真剣な議論を踏まえて制定され、その内容を国民が支持し、血肉化してきたのだということを改めて感じることができました。押しつけられたのは明治憲法の価値観に凝り固まっていた当時の支配層であっても、国民ではなかったのです。
この展覧会の図録は500円で販売されています。

名古屋大学平和憲章制定運動を振り返って

弁護士 樽井直樹

30年前の1987年2月5日、名古屋大学で戦争目的の学問研究は行わないことを誓った名古屋大学平和憲章を制定する宣言をする集会が行われました。30周年を記念して、名古屋大学平和憲章委員会が2月4日に記念企画「平和を願うリレートーク」を開催しました。当時、名古屋大学の学生として制定運動にかかわっていた私もお招きをいただきましたので、当日お話しした内容の要旨を掲載します。

私は、1985年に名古屋大学に入学しました。85年12月から当時の教養部学生自治会常任委員になり、87年2月の名古屋大学平和憲章制定集会までの間、教養部学生自治会の執行部の一員として平和憲章制定実行委員会に参加していました。
平和憲章制定運動に学生としてかかわった1人として、当時の思い出と、今の思いについてお話しさせていただきます。

1 時代背景について

平和憲章制定運動が展開されていた85年から87年にかけての時代背景について簡単に振り返りたいと思います。

①まず、当時は、第2次世界大戦後40年にわたって続いていた東西冷戦体制の下で、地球を壊滅させるような全面的な核戦争の危険についての危機意識が共有されていたことです。日本の原水爆禁止運動だけではなく、欧米でも80年代前半から反核運動が盛り上がっていました。
また、86年のチェルノブイリ原発事故も、核に対する危機意識を高めました。
特に、アメリカのレーガン政権がスターウォーズ構想といわれたSDI構想を推進しようとしていたことは、科学者の危機感を高めたと思います。

②次に、当時の日本では中曽根康弘首相の長期政権が続いていました。中曽根氏は自民党の右派の潮流を代表する政治家で「戦後政治の総決算」を掲げており、日本国憲法を占領軍による押しつけ憲法であるとして改憲に執念を燃やす政治家でした。中曽根政権の下で、政党法案やスパイ防止法(国家機密法)案が国会に提出されるなど、戦後の日本の民主的な政治体制と相容れない政策が追求されようとしていました。

③また、中曽根内閣の下で「臨調行革」といわれた行政改革、「臨教審」による教育改革が進められていました。
これらの「改革」は、現在から見れば新自由主義的な政策を展開する最初の動きになったと評価できるものですが、大学を含む高等教育機関についても、大きく位置づけが変えられようとしていました。

2 平和憲章制定運動のスタート

平和憲章は、このような状況下で、81年に教養部の教官が学生に対して「若い諸君に訴える」を発表、教養部の学生自治会が「名大平和憲章の制定」を提唱するという流れを受け、85年12月に名大職組、院生協議会、学生自治会、名大生協が中心となって名大平和憲章制定実行委員会を結成し、本格的に平和憲章制定運動がスタートしたのです。

3 平和憲章の草案作成

制定運動を始めてまず最初に直面したのは平和憲章のイメージでした。
私を含めて少なからぬ人は、平和憲章は最終的には評議会など大学の公式の機関で確認されるものの制定を目指すというイメージを持っていたと思います。しかし、最終的には教職員、院生、学生、生協職員など大学の構成員の総意として確認するものというイメージが確認されるようになりました。これは、当時の状況下での大学のあり方の模索という意味を持っていたと思います。
そして、平和憲章については草案を作成して、徹底的な全学討論を行おうという方向も決まりました。これは学生にとっては経験をしたこともない、かなり刺激的な方針でした。

4 産学協同と軍学共同

平和憲章の第1次案は86年6月に発表されました。
第1次案を受けて、様々な討論会や学習会がもたれました。教養部でも、学生自治会が何度が学習会を組織しました。
第1次案時代の議論で記憶に残っているのは「産学協同」をめぐる議論でした。私たち文系(学生だけでなく)の人間は、産学協同は学問の自主性を損なうという危惧を前提としていたと思います。他方、産業界との共同研究の実績を持つ理系の研究者からは、産学協同を罪悪視する見方は受け入れがたいものだったようです。そのため、第1次案では2項として積極的に産業界などと協力していくことを謳い、3項で軍学共同には絶対に反対するということが盛り込まれるという構造でした。
教養部の学生の議論の中で、産学協同を積極的に位置づけるのであれば、2項と3項を入れ替えるべきだ、という提案が出されたことを鮮明に覚えています。
結果的には、最終的に確認された平和憲章は2項と3項が第1次案と入れ替わっており、学生の議論もなかなか中身があるものであったと思います。

5 平和憲章の批准運動と学費値上げ反対闘争

平和憲章の制定は、当時の名古屋大学の構成員の過半数を超える批准署名を積み重ねることで、構成員の総意として確認するという方向が確認されました。
平和憲章の最終案が確定したのが86年11月、それから3カ月の期間をもって批准運動が始まりました。批准運動の中では、学生の動向に注意が払われました。当時の名大の構成員は、教職員が4000名ほど、院生が2000名、学生は8000名ほどだったと思います。学生の中で過半数に近い署名が集められるか。特に教養部の学生が約3700名を占めていたので、教養部の責任は極めて重いことになります。
ところが、平和憲章の批准運動が始まるのとほぼ同時期に、国立大学の学費値上げ計画が明らかになり、全国一斉ストライキを含む学費値上げ反対運動が提起され、学生自治会はストライキ運動にも取り組むことになりました。
平和運動制定実行委員会からは、批准運動への力が削がれることへの懸念が出されたと思いますが、結果的には学費値上げ反対闘争に全力を挙げて取り組み、その後批准運動を進めるということはよかったと思います。国立大学の学費値上げは、「受益者負担」という考えを推しだしたものであり、大学のあり方を変えるという点で平和憲章を制定する必要があるという判断と根底で共通するものでしたし、学生にとっては本当に全学生を対象とした運動に取り組むという経験を持ったことが批准運動の力になったと思います。
同時に、平和憲章に署名するというのは、一人一人の学生にとっては、ハードルの高い判断を迫るものでした。署名するかどうかを本当に悩み、よく考えて、署名しないことにしたという学生もいました。
教養部の批准率は40%くらいでした。過半数に達しなかったことに残念さはありましたが、重みのある40%だったなというのが率直な感想でした。

6 30年後の今・・・

平和憲章の制定から30年が経ちました。30年前を振り返ることは必要ですが、懐かしんでいる場合ではありません。
研究予算が抑えられる中で、防衛省の研究開発費が増額されています。軍学共同に道を開きかねない議論が学術会議で行われています。一方軍事研究には手を染めないということを表明する大学も現れています。平和憲章で議論した内容は、極めて今日的でヴィヴィッドな内容です。
軍学共同を推進することの障害を除去しようというのは、現在様々な分野で起こっている事態、つまり「戦争ができる国づくり」をめざし、そのための障害を取り除こうという動きと軌を一にしています。
私は大学人ではなく、研究者でもありませんが、弁護士という大学で学んだことを踏まえて専門職として働く者として、30年前、平和憲章制定運動に参加し、学んだことは、私にとっての指針でもあり続けています。
弁護士として、原爆症認定問題に一貫して取り組んできました。被爆の実相に学び、核兵器の使用を絶対に許さず、核兵器を廃絶するというのは、日本の平和運動の大きな特色です。今も続く原爆被害の実態を明らかにし、被害を矮小化する日本政府と闘いながら被爆者の救済を広げていくという活動の、原動力を与えてくれたのが平和憲章制定運動です。
また、平和憲章制定運動の過程で、平和の概念について学んだことも大きなことでした。「平和とは、単に戦争のない状況をいう」という消極的平和概念に対し、「平和とは、単に戦争のない状況にとどまらず、貧困や抑圧、環境破壊など構造的な暴力のない状況」を意味する積極的平和という概念を学びました。安倍内閣の下で唱えられている「積極的平和主義」とは全く異なる思想ですが、貧困や格差が拡大する日本社会において、平和を考えるうえで、構造的暴力や暴力を容認する文化との闘いを重視する積極的平和という概念は極めて重要です。

30年前、冷戦構造下での全面的核戦争の危機、中曽根内閣の下での憲法破壊の危機、臨調・臨教審路線による大学の危機、といった状況と比較すると、今日の状況は極めて深刻なものです。
私たちは平和憲章を「生きて働く規範」として確認しました。
名大平和憲章は過去のエピソードではなく、時の権力や権威によって平和や民主主義が脅かされようとするときに、平和憲章に参加した経験を持つものがこれと闘うための拠り所となり、また新たな拠り所を作る動きを生み出す力になるものと信じています。

名古屋大学平和憲章(全文)

わが国は、軍国主義とファシズムによる侵略戦争への反省と、ヒロシマ・ナガサキの原爆被害をはじめとする悲惨な体験から、戦争と戦力を放棄し、平和のうちに生存する権利を確認して、日本国憲法を制定した。
わが国の大学は、過去の侵略戦争において、戦争を科学的な見地から批判し続けることができなかった。むしろ大学は、戦争を肯定する学問を生みだし、軍事技術の開発にも深くかかわり、さらに、多くの学生を戦場に送りだした。こうした過去への反省から、戦後、大学は、「真理と平和を希求する人間の育成」を教育の基本とし、戦争遂行に加担するというあやまちを二度とくりかえさない決意をかためてきた。
しかし、今日、核軍拡競争は際限なく続けられ、核戦争の危険性が一層高まり、その結果、人類は共滅の危機を迎えている。核兵器をはじめとする非人道的兵器のすみやかな廃絶と全般的な軍縮の推進は、人類共通の課題である。
加えて、節度を欠いた生産活動によって資源が浪費され、地球的規模での環境破壊や資源の涸渇が問題となっている。しかも、この地球上において、いまなお多くの人々が深刻な飢餓と貧困にさらされており、地域的および社会的不平等も拡大している。「物質的な豊かさ」をそなえるようになったわが国でも、その反面の「心の貧しさ」に深い自戒と反省がせまられている。戦争のない、物質的にも精神的にも豊かで平和な社会の建設が、切に求められている。
今、人類がみずからの生みだしたものによって絶滅するかもしれないという危機的状況に直面して、われわれ大学人は、過去への反省をもふまえて、いったい何をなすべきか、何をしうるか、鋭く問われている。
大学は、政治的権力や世俗的権威から独立して、人類の立場において学問に専心し、人間の精神と英知をになうことによってこそ、最高の学府をもってみずからを任じることができよう。人間を生かし、その未来をひらく可能性が、人間の精神と英知に求められるとすれば、大学は、平和の創造の場として、また人類の未来をきりひらく場として、その任務をすすんで負わなければならない。
われわれは、世界の平和と人類の福祉を志向する学問研究に従い、主体的に学び、平和な社会の建設に貢献する有能な働き手となることをめざす。
名古屋大学は、自由濶達で清新な学風、大学の管理運営への全構成員の自覚的参加と自治、各学問分野の協力と調和ある発展への志向という誇るべき伝統を築いてきた。このようなすぐれた伝統を継承し、発展させるとともに、大学の社会的責任を深く自覚し、平和の創造に貢献する大学をめざして、ここに名古屋大学平和憲章を全構成員の名において制定する。

  • 一.  平和とは何か、戦争とは何かを、自主的で創造的な学問研究によって科学的に明らかにし、諸科学の調和ある発達と学際的な協力を通じて、平和な未来を建設する方途をみいだすよう努める。
    その成果の上に立ち、平和学の開講をはじめ、一般教育と専門教育の両面において平和教育の充実をはかる。
    平和に貢献する学問研究と教育をすすめる大学にふさわしい条件を全構成員が共同して充実させ、発展させる。
  • 二. 大学は、戦争に加担するというあやまちを二度とくりかえしてはならない。われわれは、いかなる理由であれ、戦争を目的とする学問研究と教育には従わない。
    そのために、国の内外を問わず、軍関係機関およびこれら機関に所属する者との共同研究をおこなわず、これら機関からの研究資金を受け入れない。また軍関係機関に所属する者の教育はおこなわない。
  • 三. 大学における学問研究は、人間の尊厳が保障される平和で豊かな社会の建設に寄与しなければならない。そのためには、他大学、他の研究機関、行政機関、産業界、地域社会、国際社会など社会を構成する広範な分野との有効な協力が必要である。
    学問研究は、ときの権力や特殊利益の圧力によって曲げられてはならない。社会との協力が平和に寄与するものとなるために、われわれは、研究の自主性を尊重し、学問研究をその内的必然性にもとづいておこなう。学問研究の成果が人類社会全体のものとして正しく利用されるようにするため、学問研究と教育をそのあらゆる段階で公開する。
    社会との協力にあたり、大学人の社会的責任の自覚に立ち、各層の相互批判を保障し、学問研究の民主的な体制を形成する。
  • 四. われわれは、平和を希求する広範な人々と共同し、大学人の社会的責務を果たす。
    平和のための研究および教育の成果を広く社会に還元することに努める。そして、国民と地域住民の期待に積極的に応えることによって、その研究および教育をさらに発展させる。
    科学の国際性を重んじ、平和の実現を求める世界の大学人や広範な人々との交流に努め、国際的な相互理解を深めることを通じて、世界の平和の確立に寄与する。
  • 五. この憲章の理念と目標を達成するためには、大学を構成する各層が、それぞれ固有の権利と役割にもとづいて大学自治の形成に寄与するという全構成員自治の原則が不可欠である。われわれは、全構成員自治の原則と諸制度をさらに充実させ、発展させる。

われわれは、この憲章を、学問研究および教育をはじめとするあらゆる営みの生きてはたらく規範として確認する。そして、これを誠実に実行することを誓う。

(1987年2月5日 名古屋大学豊田講堂にて制定宣言)

警察の監視活動はどこまで許されるか~大垣警察市民監視事件提訴~

弁護士 樽井直樹

警察による市民監視

2014年7月24日に朝日新聞が「岐阜県警が個人情報を漏洩」との記事を掲載し、「岐阜県大垣市での風力発電施設建設をめぐり,同県大垣署が事業者の中部電力子会社に、反対住民の過去の活動や関係のない市民活動家、法律事務所の実名を挙げ、連携を警戒するよう助言したうえ、学歴、または病歴、年齢など計6人の個人情報を漏らしていた」と報道しました。

今、日本社会では、警察や自衛隊など公権力による一般市民の監視(犯罪を犯したという嫌疑で捜査をするのではない,幅広い情報収集活動)が行われています。ムスリム監視捜査事件では、警察がムスリムを対象とした大規模な監視を行っていたことが、警察の内部資料がインターネットを通じて流出して明らかになりました。自衛隊情報監視隊による市民のイラク派遣反対運動、地方議会の動向、マスコミの取材活動を詳細に記載した内部文書が明らかになり、自衛隊による市民監視が継続的に行われてきたことも知られるようになりました。

朝日新聞の報道によって明らかになった大垣警察の情報収集活動、提供行為については、情報を収集された市民が、中部電力の子会社に対して証拠保全手続を行い、大垣警察との協議内容を記録した文書を入手しています。そこには、警察が、一私企業の環境破壊をもたらす可能性のある事業活動に関して反対運動が起こることを危惧・警戒して、当該私企業に対し警察が収集した個人に関する情報を提供し、反対運動が展開することのないように企業と協議、情報交換をしていたことが、生々しく記録されています。いったいこのようなことが許されていいのでしょうか。

法的な問題点

提供された個人情報は、本人たちが公表している事項だけではありません。団体への所属や今まで参加した市民運動歴など「承諾なくみだりに収集されたくない情報」や、病歴や学歴など秘匿されるべき個人情報まで含まれています。このような情報を、警察が継続的に収集、保管し、今回のように外部への提供を含めた利用をすることは、憲法13条で保障された個人のプライバシー権を侵害します。

それだけでなく、警察に監視されているのを恐れ,憲法21条で保障されている、個人が表現活動やコミュニケーション活動を通じて人や社会に働きかけ、正当な利益を守ったりよりよい社会を作っていくという自由が妨げられ、民主政の過程が傷つけられてしまいます。

もちろん、犯罪の防止や安全の確保のため、狭い意味での犯罪捜査に限らない警察の活動が必要な分野がありますし、警察のそのような活動に対して一定の期待が寄せられているのも事実です。しかし、強大な力を持つ警察権力が市民社会に無制限に介入することを許せば、社会から自由や民主主義が失われることにつながりかねません。

そこで、憲法を武器に、警察による市民監視に制限を加えることが必要だと考えています。

提訴しました

12月21日に、監視の対象となっていた4名の市民が、大垣警察を設置している岐阜県を相手に、国家賠償を求める裁判を提起しました。

警察によるGPS捜査に関する裁判にかかわっていたこともあり、岐阜の弁護士仲間から弁護団に加わることを要請され、私も弁護団の一員に名を連ねています。2017年7月1日に開催する当事務所友の会総会に講師として参加される愛敬浩二名古屋大学教授も本件に大変関心を持たれ、憲法研究者として弁護団へのアドバイスをして下さっています。

市民たちは、この裁判を「大垣警察市民監視違憲訴訟」と名付け、「もの言う」自由を守る会を結成して支援をつのっています。是非、ご協力をお願いします。

*なお、日本評論社が発行する「法学セミナー」2016年11月号では、「市民の政治的表現の自由とプライバシー」という特集を行い、市民監視事件の実態報告と憲法研究者による理論的解明が行われています。その中には、本事件弁護団長の山田秀樹弁護士の事件報告も掲載されています。

 

喫煙と法

弁護士 酒井寛

私は、昨年まで喫煙者だったのですが、本年の2月から禁煙をしております。
既に半年以上、禁煙に成功していることになりますが、まだ、食後や仕事が一段落した後に「一服吸いたい」という気持ちに襲われることがあり、まだまだ、予断を許さない状況です・・・。

1 喫煙に関する法律など

ところで、喫煙に関する法律には以下のようなものがあります。

・一定の人の喫煙を禁止する法律
未成年者喫煙禁止法」など

・特定の場面での喫煙を禁止する法律
鉄道営業法」第34条など
※プラットフォームや電車内の内、喫煙が許されていない場所において、制止されたにも関わらず喫煙したものには一万円未満の罰金が課せられる。

・その他
労働安全衛生法」第71条の2~4、「健康増進法」第25条
※事業者や学校、病院等の多数の者が利用する施設の管理者について、受動喫煙防止のために必要な措置を講ずるように努めなければならないとされている。など多数・・・

また、「ポイ捨て禁止条例」など喫煙に関する条例も存在します。

このように、喫煙を制限する法律、条例などは多く存在します。

さらに、裁判例においても、マンションの住民がベランダで喫煙していたところ、真上の階の住民が、その煙がストレスとなって体調が悪化した等として、ベランダで喫煙をしている住民に対して慰謝料を請求したという事案において、この慰謝料請求が認められたというものなどが存在します。

2 喫煙をする権利

それでは、逆に、「喫煙をする権利」というのは認められているのでしょうか?
この点、最高裁判所は、「喫煙の自由は、憲法13条の保障する基本的人権の一に含まれるとしても、あらゆる時、所において保障されなければならないものではない」としました(この判例は、「拘禁されている者」という、特殊な状況にある人のケースではありますが・・・)。

最高裁判所大法廷昭和45年9月16日判決

 監獄の現在の施設および管理態勢のもとにおいては、喫煙に伴う火気の使用に起因する火災発生のおそれが少なくなく、また、喫煙の自由を認めることにより通謀のおそれがあり、監獄内の秩序の維持にも支障をきたすものであるというのである。

 右事実によれば、喫煙を許すことにより、罪証隠滅のおそれがあり、また、火災発生の場合には被拘禁者の逃走が予想され、かくては、直接拘禁の本質的目的を達することができないことは明らかである。のみならず、被拘禁者の集団内における火災が人道上重大な結果を発生せしめることはいうまでもない。

 他面、煙草は生活必需品とまでは断じがたく、ある程度普及率の高い嗜好品にすぎず、喫煙の禁止は、煙草の愛好者に対しては相当の精神的苦痛を感ぜしめるとしても、それが人体に直接障害を与えるものではないのであり、かかる観点よりすれば、 喫煙の自由は、憲法13条の保障する基本的人権の一に含まれるとしても、あらゆる時、所において保障されなければならないものではない。

 したがって、このよう な拘禁の目的と制限される基本的人権の内容、制限の必要性などの関係を総合考察すると、前記の喫煙禁止という程度の自由の制限は、必要かつ合理的なものである と解するのが相当であり、監獄法施行規則九六条中未決勾留により拘禁された者に 対し喫煙を禁止する規定が憲法13条に違反するものといえないことは明らかであ る。

極めて簡単に言えば、喫煙をする権利は認められているものの、いつでも、どこでも喫煙して良いというわけではなく、周囲の人の迷惑になるような喫煙の仕方は許されないということです。当然ですよね。

私は、愛煙家であった時代が長いですし、煙草を吸う人の気持ちは良く分かります。
(今のところ)禁煙に成功した現在においても、喫煙行為自体を否定する気持ちにはなりません。
他方、禁煙をすることにより、喫煙者の煙草の匂いに気づくようになるなど、喫煙行為に嫌悪感を持つ人の気持ちも少し分かるようになりました。
社会においては、色々な趣味嗜好を持つ人々がいます。
私が考える「良い社会」というのは、様々な個性を持つ人々がお互いを尊重すると共に、他人に迷惑を掛けないように最低限我慢すべき点は我慢することによって、できる限り多くの人々が気持ちよく暮していける社会です。
愛煙家もそうではない人も共に気持ち良く暮らせるよう、喫煙者の方においては、喫煙に関する法律や条例はもちろん、法律や条例にまではなっていないものの、守るべき「喫煙マナー」をもしっかりと守って喫煙していただきますよう、宜しくお願いいたします。

被爆71周年を迎えた広島で

弁護士 樽井直樹

 「ここ、ここに私のうちがあったんですよ」
広島での弁護団会議に出席した翌日の8月6日、広島の平和公園で広島市長が読み上げる平和宣言を聞いた後、供養塚に向かう途中、平和観音のそばを通りかかり、被爆前のこの地域(中島本町)の地図を掲載した掲示に見入っていた私に、声を掛けてくれたお年寄りの言葉です。
「この辺は,繁華街でした。(地図を差しながら)映画館があったり、カフェーがあったり。私たちは家族疎開をしていたのですが、当日たまたま弟が体調を崩し、母が近所のかかりつけの医者に弟を連れて行くといって広島に戻り、被爆しました。広島から芸備線で二駅先の戸坂(へさか)に疎開していたのですが、母が戻ってこないので、3日後に歩いて広島に行きました。焼け野原で、広島駅からずっと遠くまで見通せました。皮膚が垂れ下がった人がたくさんいました。(爆心地に近い)このあたりでは死体もすべて燃えてしまっていました。弟と姉、母が亡くなりました。向かいに住んでいた親戚も全員亡くなりました。私は当時(国民学校の)3年生、8歳でした。」
そのように語りかけた後、お年寄りは、地域の慰霊祭の席に戻られました。

弁護士として原爆症認定訴訟にかかわり14年が経ちました。この間、多くの被爆者に接し、貴重な体験を伺うことができました。広島でのこのような偶然の出会いを含め、ひとりひとりの被爆者の体験はなにものにも代えがたいものであることを痛感しました。しかし、私に語りかけてくださった方も80歳を迎えようとしています。被爆を直接体験された方が語ることができる年月は限られています。

日本の被爆者運動の大きな特徴は、人類が史上2回しか経験していない核戦争である広島・長崎の被爆の実相に立脚し、「私たちと同じような被爆者をふたたび生まない」ことを目標に、核兵器の廃絶を訴えてきたことにあります。このことは当たり前のように思われるかもしれません。しかし、世界の各地で暴力と報復の応酬によって紛争の連鎖が生じている現実を踏まえるならば、被爆者運動の倫理性は特筆されるべきものです。
オバマ大統領が5月に広島を訪問したことについて、多くの被爆者は好意的に受け止めているようです。原爆を落とした国の大統領が被爆地に足を運び、被爆の実相と向き合おうとした。このことに「うれしい」と感じているという感想を何度も聞きました。もちろん、オバマ大統領の演説には不満を感じた人も多かったと思います。プラハ演説で「核のない世界の実現」を呼びかけて7年経つにもかかわらず、核軍縮は停滞したままであることについて批判されるのも当然です。しかし、核兵器の廃絶を訴えてきた被爆者が,オバマ大統領の広島訪問を喜んでいることを素直に受け止めるべきでしょう。

原爆による放射線被害の実態は、被爆から71年たった今も、そのすべてが明らかになったとはいえません。特に、遠距離被爆者であるとか入市被爆者といわれる比較的低線量の被曝をしたとされてきた被爆者にも、放射線被曝によるとしか考えられないような健康被害が生じていたことが明らかになってきています。
2009年、被爆者団体と当時の首相・自民党総裁麻生太郎氏との間で締結された原爆症認定集団訴訟の終結にかかる確認書は、被爆者が再び訴訟に訴えるようなことがないようにすることを合意しています。ところが、広島・長崎の被爆者が、自分の病気が原爆のせいであることを認めてほしいという原爆症認定訴訟は、現在も続いています。
9月14日には、4名の原告について、名古屋地裁での判決が言い渡されます。勝訴判決を獲得し、原爆症認定行政を改めさせることで、核兵器が、被爆から70年以上も経った現在もなお、生き残った被爆者の健康を蝕み続ける残虐で非人間的なものであることを訴えていきたい。
被爆地広島でそのような決意を新たにしました。

憲法について学ぶ

本年7月15日、当事務所において、当事務所の若手弁護士3人が講師となって、主に弁護士以外の職員向けの憲法の学習会が開かれました。
憲法が、「1人1人に違いがあることを認めた上で、1人1人の存在価値を認める」という「個人の尊重」という理念に基づいていること、法律が、国民の行動を規制するものであるのに対して、憲法が、国などの公権力の行為に歯止めをかけるものであることなど、憲法の基礎中の基礎の部分について分かり易い解説がなされました。
とくに、講師自身の生い立ちと関連させて「個人の尊重」の解説をするなど、憲法について学ぶことが初めての人にも興味を持ってもらい易いように講義の内容が工夫されており、大変感心しました。

皆様もご存知の通り、本年7月10日に参議院議員通常選挙が行われました。
そして、この選挙によって、衆議院、参議院共に「憲法を変えた方が良い」と考える議員の人数が、それぞれの総議員の3分の2の人数を越えることになりました。

日本国憲法第九十六条
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

 

この条文は、「権力者が暴走しないように縛る」という憲法の重要性から、簡単には改憲できないように、国会の発議と国民投票という二重の厳重なハードルを設けているのですが、今回の参議院議員選挙の結果「憲法を変えた方が良い」と考える国会議員が両議員とも3分の2を越えたため、「憲法をこのような内容に変えたい」と提案をすること(国会の発議)が可能な状態になったということです。
しかし、あくまでも、憲法をこのような内容に変えたいと「提案」できるだけであり、国民投票での過半数の賛成がなければ、その提案通りに憲法が変わることはありません。
つまり、最終的には、私たち国民に、憲法を護るか、変えるかの判断がゆだねられることになるのです。

いろいろな考え方があるとは思いますが、私は、少なくとも、国民が皆、憲法について様々なことを学んだ上で国民投票がなされるべきだと考えています。したがって、冒頭で述べたような学習会を行っていくことはとても大切だと思いました。
先月23日にイギリスで行われた欧州連合(EU)からの離脱の是非を問う国民投票の結果は、世界に大きな衝撃を与えましたが、未だにたくさんのイギリスの人々が国民投票のやり直しを求めているとのことですが、国民投票の結果を覆すことは困難だと思われます。
後で取り返しのつかない事態に陥らないよう、憲法改正の国民投票が行われることに備えて、皆で憲法についてしっかりと学び、議論していきましょう。
そのために、当事務所の弁護士がお役に立てることもあると思いますので、「憲法に関する学習会の講師として来て欲しい」などのご要望があるときには、お気軽にご連絡いただきますよう、よろしくお願いいたします。

弁護士 酒井寛

衆議院解散はどんなときにできるの?

本年11月21日に衆議院が解散されました。ところで、「解散」とは,そもそもどのような制度なのでしょうか?そして、誰が、どのような時にできるものなのでしょうか?今回は,今回の衆議院選挙について考えるためにも,衆議院の解散の意味についてお話させていただきます。

1 衆議院の解散とは

 まず、「解散」とは、任期の満了する前に衆議院の全議員の地位を失わせることをいいます。なお、解散するのは衆議院のみであり、参議院の解散は ありません。

 そして、「解散」は憲法上認められた制度なのですが、具体的に憲法の第何条に基づいて認められるのかについては、いくつかの見解が対立しています・・・けれども、少しマニアックな話になってしまうので、ここでは詳しくは触れません。

 次に、「解散」を決定できるのは誰なのでしょうか?実は、この点についても争いがあるのですが、「内閣」だけが「解散」するか否かを決定できるというのが現在の通説です。

2 解散は何のためにあるのか

 では、何のために「解散」という制度があるのでしょうか?

 大きく分けて、①政府の議会に対する抑制手段、②解散に続いて行われる選挙において、重要な政治問題について民意を問うという2つの目的があります。現在は、重要な政治問題について民意を問うという②の目的が特に重視さ れています。

 それでは、「解散」はどのような場合にできるのでしょうか?

 先ほど述べたように、「解散」というのは、内閣が、国民に対して、(選挙を通じて)自らの政策に対する意見を問う制度ですから、意見を問う必要が 生じた場合でなければなりません。そこで、

① 衆議院で内閣の重要案件(法律案、予算案等)が否決され、または、審議未了になった場合
② 政界再編成等により内閣の性格が基本的に変わった場合
③ 総選挙の争点でなかった新しい重大な政治的課題に対処する場合
④ 内閣が基本政策を根本的に変更する場合
⑤ 議員の任期満了時期が近接している場合

に限られると解されています。

 今回の衆議院解散の理由は上記の①~⑤の内、どの理由によるものなのでしょうか?

 安倍首相は、解散の理由について、「消費税増税を先送りしたことについて、国民の信を問う」ということを述べていますので、④の理由ということになるのでしょうか?但し、それが本音かどうかは明らかではなく、野党からは「大義なき解散」等と批判をされています。

3 何より投票に行って,意思表示を

 いずれにしても、衆議院が解散された以上,その後の総選挙で自分達の意思を国政に反映させるのが大切です。私たちの重要な民意が問われているのですから。

 もし政治に思うところがあれば,投票所に足を運びましょう。あなたの1票には大きな力があります。

弁護士 酒井 寛

スコットランド独立問題と日本国憲法

9月19日、スコットランドの独立の是非を問う住民投票が行われました。結果は皆さんもご存知だとは思いますが、独立反対の票が賛成の票を上回り、スコットランドは英国に残留することになりました。

ところで、今回のスコットランドのように、たとえば北海道や沖縄県等、日本の都道府県や市町村が日本からの独立を求めた場合、住民投票の結果によっては独立を認めるということが、日本国憲法上可能なのでしょうか。

日本国憲法第92条には、「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」とあり、地方自治が認められています。

そして、「地方自治の本旨」の内容には「住民自治」、すなわち、地方の政治がその地方の住民の意思に基づいて行われるということが含まれています。しかし、「地方(都道府県や市町村)の独立」に関する規定までは置かれていません。

この点、かつて大森政輔内閣法制局長官(当時)は、1997年2月13日の衆院予算委員会で「独立というのは一国の主権、領土から離脱することであり、現行憲法はそれに関する規定がない。適法にそのような行為(独立)はできないのではないか」と答弁しています。

このように、現在のところ、一般的には、日本国憲法のもとにおいて日本の都道府県や市町村が合法的に日本から独立することはできないと解されています。

今回のスコットランドの独立を求める声には、英国による社会保障費の削減等に対する抵抗という側面がありました。英国にとっては今回の結果は望ましいものだったのでしょうが、今後、スコットランドの人々の声にどのように応えて行くか、課題は山積であるといえます。

弁護士 酒井寛

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